わたしといえど、人並みにオードリー・ヘプバーンに憧れました。
『ローマの休日』は何度も観ました。
そんなわたしですが高校生時代には『グローイング・アップ』に熱中していたものです。
これは、多分結果的にでしょうが、シリーズもんになったので、次作を楽しみに待つということもできたのです。
熱中が持続したのです。
第1作が15歳のとき。
20歳を過ぎるか過ぎないかの5作めがラストだったと思いますが、その頃にはそろそろこういった作品を必要としなくなっており、そこで打ち切りになったことで、見事に思い出へと移行したのでした。
ストーリー、キャラクター共に、平凡極まりないのです。
王道を行くラブストーリーの間にこれまたパターンのギャグを、デブちんがかますのです。
それにどきどきし、大笑いし、ラストで切なくなるのです。
何十年『水戸黄門』を観続けても、まだ続きが楽しみでしかたない、婆ちゃんの気持ちもわかろうというものですね。
この映画の卑怯なところ(念の為に断わっておきますが、この「卑怯」は誉め言葉です)は音楽で、50年代、60年代のアメリカン・ポップスは、妙に切ない気持ちをかきたてるものと相場が決まっています。
私より下の年代になるとどうかは知りませんが、私達の年代には生まれてもいないその頃の曲に、胸をしめつけられたり、思わず踊りたくなったりする感覚を持っている人間が多いようなのでした。
前回も書きましたが、B級映画との最も現在的な出会いの場は、深夜テレビでしょう。
そして現在、日本の中流家庭でその場に最も接しているのは、たぶん父親勢です。
これに気がついたのは、数年前のある夜中にポーッとテレビをつけていた時でした。
親父がのそのそ起き出してきて、チラッと画面を観るなりこう言うのです。
「ああこれ、つまらん」
「え?知ってんの」
「何度も観た。もうすぐこの女の子が、シュルシュルーとかいってヘビになっちゃうんだ」
と言ってるそばから、セコい特撮でホントにそうなってしまいました。
「ほれ見ろ、バカらしい」と言いつつ、親父は得意げにその先の展開を細々と解説してくれたのですが、それが全部、その通りに起こります。
その後も、「どっかのモーテルで客を首まで埋めて、人肉ジャーキーをつくる話」(『地獄のモーテル』ですな)や、「みんなでナマコをのむ話」(クローネンバーグの『シーバース人喰い生物の島』だった)や「飛行機盗んで砂漠でゴロゴロする退屈な話」(B級じゃないけど、アントニオー二の『砂丘』)などで博識ぶりを見せつけられて、わたしは脱帽したものです。
似たような症例は、知りあい数人からも報告されています。
すると、いまは文化的な方面には無縁と思われ、家庭の中でも居心地の悪そうな父親たちが、ある日B級ゲテモノ映画解説者として新たな地位を見いだす、なんて事態がひょっとしたらあり得るかもしれません。
むろん、そんな地位が何の役に立つわけではありません。
しかし、これもまたB級ゲテモノ映画らしい状況だ、とは言えそうですね。
ジャック・ケルアックは、1日中ビールを飲みながら母親とテレビを観つつ死んだけれど、現代日本の退屈な日々には、夜中に父親とゴロゴロしつつB級ゲテモノ映画をテレビで観る、なんてのが人畜無害で似つかわしいのかもしれません。