1960年代と70年代は世界経済が調和を保っていました。
しかし、日本は国内市場を輸入品から保護し(1976年、日本でのテレビセットの販売台数500万のうち輸入されたのはたった50台でした)、国内でのテレビの価格を高くして輸出を補填していました。
(1976年に一番安い19インチ・カラーテレピは日本で700ドルで売られましたが、同じセットがアメリカでは350ドルで販売されました)。
そして、アメリカのシアーズのような大規模小売業者に不法なリベートを与えて彼らの「ちょっとした不公正な利益」をモノにしました。
アメリカのテレビ製造業界は1968年にダンピング提訴を行いました。
しかし1971年に到るまで、政府はダンピング認定を発表しなかったのです。
日本はそのままダンピングを続けました。
1977年、関税局が日本企業にアメリカ政府への4億ドルの支払いを命じています。
しかし財務省は関税局の命令をくつがえし、たった4600万ドルの関税を課しただけです。
そしてこの額は1980年の決定でさらに減額されました。
日本のダンピング戦略とワシントンの遅くて効果のない対応が相侯って、日本はアメリカのテレビ市場を勝ち取ったのです。
アメリカ企業は廃業を止むなくされるか、日本企業に会社を売り払うか、海外へ移転させられるハメになりました。
その結果、2万3000人以上のアメリカの生産労働者が1973年から1982年までの間にカラーテレビ産業で職を失いました。
その産業で学んだように、アメリカ企業が不公正な外国貿易慣行から救出される場合でさえ、救済手続きはあまりにも複雑でコストもかかるのです。