映画でもドラマでもCMでも、こういった曲はよく使われるし、使えばヒットします。
例えば『ゴーストニューヨークの幻』の『アンチェイン・メロディ』なども。
一発でも勝負の効く曲を束になって使ってるので、卑怯だと思うのです。
それがきちんとはまってるのもあざといですね。
1作めのラストシーン、一人で夜道を歩くベンジーにかぶる『ミスター・ロンリー』は、よく真似したもんです。
高校生にとって、帰りが夜になるのは特別な日です。
友達の家で集まってたり、ライブ行ったり、学校祭や試合だったり。
だから、ただでさえ気分がハイになってて(人目、人耳が無いのを確認した上でではあっても)そういう、恥ずかしいことしてても、大丈夫という気持ちになっていたのです。
もちろん1人じゃなくて、一緒にそういう莫迦なことしてくれる友達がいたからこそ、できたことなんですけども。
『リトル・ダーリン』、『タミー』、『悲しき雨音』、『サイレンス・イズ・ゴールデン』、思い出と結び付いてる曲は沢山あります。
オールディーズの名曲てんこ盛りの映画としては、ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』の方が遥かにメジャーですが、こちらも私達にとって大切な作品。
『グローイング・アップ』の登場人物は、そんなにお洒落じゃないのが残念なところですね。
その点『アメリカン・グラフィティ』はおしゃれです。
しかし、私達には疑問があったのです。
純情な筈のベンジーが、作品毎に恋人をとっかえているのはどういうわけなのか。
前作がハッピーエンドでも、次の作品では新しい恋人を追っかけている・・・。
そして親友の妹をパートナーに選んだ5作めがラスト。
少なくとも、私はそれ以上観ていません。
その頃、私も主人公たちも高校を卒業していました。
そのころ私にとって恋は、どきどきするためよりも、安心するためのものになりつつありました。
わたしといえど、人並みにオードリー・ヘプバーンに憧れました。
『ローマの休日』は何度も観ました。
そんなわたしですが高校生時代には『グローイング・アップ』に熱中していたものです。
これは、多分結果的にでしょうが、シリーズもんになったので、次作を楽しみに待つということもできたのです。
熱中が持続したのです。
第1作が15歳のとき。
20歳を過ぎるか過ぎないかの5作めがラストだったと思いますが、その頃にはそろそろこういった作品を必要としなくなっており、そこで打ち切りになったことで、見事に思い出へと移行したのでした。
ストーリー、キャラクター共に、平凡極まりないのです。
王道を行くラブストーリーの間にこれまたパターンのギャグを、デブちんがかますのです。
それにどきどきし、大笑いし、ラストで切なくなるのです。
何十年『水戸黄門』を観続けても、まだ続きが楽しみでしかたない、婆ちゃんの気持ちもわかろうというものですね。
この映画の卑怯なところ(念の為に断わっておきますが、この「卑怯」は誉め言葉です)は音楽で、50年代、60年代のアメリカン・ポップスは、妙に切ない気持ちをかきたてるものと相場が決まっています。
私より下の年代になるとどうかは知りませんが、私達の年代には生まれてもいないその頃の曲に、胸をしめつけられたり、思わず踊りたくなったりする感覚を持っている人間が多いようなのでした。
前回も書きましたが、B級映画との最も現在的な出会いの場は、深夜テレビでしょう。
そして現在、日本の中流家庭でその場に最も接しているのは、たぶん父親勢です。
これに気がついたのは、数年前のある夜中にポーッとテレビをつけていた時でした。
親父がのそのそ起き出してきて、チラッと画面を観るなりこう言うのです。
「ああこれ、つまらん」
「え?知ってんの」
「何度も観た。もうすぐこの女の子が、シュルシュルーとかいってヘビになっちゃうんだ」
と言ってるそばから、セコい特撮でホントにそうなってしまいました。
「ほれ見ろ、バカらしい」と言いつつ、親父は得意げにその先の展開を細々と解説してくれたのですが、それが全部、その通りに起こります。
その後も、「どっかのモーテルで客を首まで埋めて、人肉ジャーキーをつくる話」(『地獄のモーテル』ですな)や、「みんなでナマコをのむ話」(クローネンバーグの『シーバース人喰い生物の島』だった)や「飛行機盗んで砂漠でゴロゴロする退屈な話」(B級じゃないけど、アントニオー二の『砂丘』)などで博識ぶりを見せつけられて、わたしは脱帽したものです。
似たような症例は、知りあい数人からも報告されています。
すると、いまは文化的な方面には無縁と思われ、家庭の中でも居心地の悪そうな父親たちが、ある日B級ゲテモノ映画解説者として新たな地位を見いだす、なんて事態がひょっとしたらあり得るかもしれません。
むろん、そんな地位が何の役に立つわけではありません。
しかし、これもまたB級ゲテモノ映画らしい状況だ、とは言えそうですね。
ジャック・ケルアックは、1日中ビールを飲みながら母親とテレビを観つつ死んだけれど、現代日本の退屈な日々には、夜中に父親とゴロゴロしつつB級ゲテモノ映画をテレビで観る、なんてのが人畜無害で似つかわしいのかもしれません。
では、B級ゲテモノ映画は観る価値がまったくないのでしょうか。
ないのです。ほとんどないのです。
というか、これは問題のたて方を間違っているのです。
B級映画とは、価値があるから観るものではありません。
その唯一の存在意義とは、暇つぶしなのですから。
かつてもそうだったし、今もなおそうなのです。
もともとB級映画というのは、映画がロードショーで2本立て上映されていた頃(地方館では今でもそうだけど)、おまけで上映された低予算映画。
おもしろすぎて本編を食ってはいけないし、かといってつまらなすぎて客を帰らせてもいけないし、もちろん製作費も納期も厳守だし云々云々、といろいろあるけれど、一方でその条件さえ満たせば多少いい加減でも許されたから、たまにわけのわからない変な代物がまぎれこんでくるのです。
現在一般に言われるB級映画というのは、それが拡大解釈されて、低予算のホラー映画やSF、それにポルノみたいなジャンルすべてを含むようになっていますが、まあ事態は似たようなものです。
この氏素性からも明らかなように、B級映画はさっと観流されるべき、あっさり消費されて忘れられるべき代物なのです。
それをわざわざ映画館に観に行く必要はないのです。
大学生ならいざ知らず、専業の映画感想屋ならいざ知らず、社会人はそれほど暇じゃないのです。
ビデオ屋はいい線です。しかし、まだ物欲しげな感じ。
毒にも薬にもならない暇つぶし、というB級映画に最もふさわしい出会いの場は、深夜のテレビでしょう。
監督も、役者も、多くの場合はタイトルすら知らない、あえて調べる気にもならない映画の群れ。
ギタギタにカットされまくった、時にストーリーすらろくに追えなくなった映画・・・つまらないのは承知のうえ。
どうせ疲れてるから、つまらないほうが神経にさわらなくて好都合。
B級映画の教えとは、くだらないものでも(時には)ないよりまし、ということかもしれません。
そこに加えて一つでも楽しある部分があれば、望外の歓びとしなくてはなりません。
しかし人生というのも(たぶん)そんなものでしょう。
トビー・フーパーがどうのとか、ジョージ・ロメロの昔の映画がなんだとか、ハーシェル・ゴードン・ルイスがどうたらとか、ラス・メイヤーの巨乳映画がどうしたとか、B級ゲテモノ映画をめぐる物言いは尽きないものです。
しかし、巷でよくきくB級ゲテモノ映画賛の多くには、B級であること、ゲテモノであることそれ自体を称揚するような、自閉した雰囲気があります。
別にいいのだけれど、でも、こういう物言いにのせられて、DVDを借りてきてはがっかりさせられた経験を多々持つ身としては、つい懐疑的になってしまいます。
「B級映画なんて、それほどのもんかあ?」
あまり期待してはいけません。
B級映画はしょせん「B級」であり、したがってB級映画に対するまっとうな賛辞は、通常は「まあこんなものかな」であり、最高(最低)でも「すばらしくくだらない」か「発狂するほどイカレてる」であり、その魅力の大半はキッチュのイカモノ趣味なのです。
過去のよじれた感性や突出した趣味が、時代のたゆたいの中で一時的な(部分的な)アピールを獲得することはあるでしょう。
しかし、それはしょせんマニアックでスノビッシュな領域に属するものであり、そういう嗜好の人だけが気にすればいい世界なのです。